【開幕直前インタビュー】 串田和美監督が語る『そよ風と魔女たちとマクベスと』


2020/10/01 (木) 更新

【開幕直前インタビュー】 串田和美監督が語る『そよ風と魔女たちとマクベスと』

長野県の文化事業全体の底上げを図るため、2016年4月に、一般財団法人長野県文化振興事業団に複数の芸術分野の専門家からなる「長野県芸術監督団」が設置されました。演劇分野を担当するのは俳優で演出家の串田和美監督です。これまで『或いは、テネシーワルツ』『月夜のファウスト』などで県内各地の皆様の協力のもと巡演してきました。そして今年は、シェイクスピア4大悲劇の一つ、『マクベス』を下敷きにした『そよ風と魔女たちとマクベスと』をお届けします。
 

原作『マクベス』のあらすじ
グラームスの領主である武将マクベスは、凱旋の途中、森で出会った3人の魔女に「コーダーの領主になり、いずれは王になる」との予言を受ける。野心にかられたマクベスは、妻の後押しもあり、ダンカン王を暗殺。望みどおり王になったものの、自分の地位を失う恐怖から、次々と罪を重ねていく……。

 

今に続く僕の原点になった作品が『マクベス』

いつも上演したいリストに入っていた

――串田さんはお若いころに『マクベス』を何回も手がけています。久しぶりに『マクベス』をやってみようと思われた経緯を教えていただけますか?

串田 僕が24歳の時、1966年に六本木を拠点に自由劇場という劇団を立ち上げたんです。でも5年が過ぎメンバーと別れがやってきてね。これから一人でやっていこうかと悶々としていた時に、別れた劇団に行った吉田日出子さんが戻ってきたり、まだまだ無名だった佐藤B作さんら若い新しいメンバーが集まってきて、初めて僕が構成や演出をして上演したのが『マクベス』でした。物語を解体して、新しくつくったシーンや歌を入れたりしてね。それが72年の春で、僕らの新たなスタート、そして今に続く僕の原点になったわけです。翻訳家の松岡和子さんの文庫本にある『マクベス』の上演記録を見ると、僕の名前がいっぱいあってね、こんなにやっているんだと笑っちゃった。

そういう意味でも『マクベス』はいつかやりたい作品として常に頭の中にはあったんだ。芸術監督団の今年度の事業は、多勢の役者さんが活躍する別の作品を考えて準備していたんだけど、コロナ禍で役者もスタッフも絞らなければいけなくなって、じゃあこれをやろうと決めたんです。4月から6月の自粛期間はいろんな考えが浮かんで、アイデアを膨らませる時間にはなりました。


 

『マクベス』という作品に対するオマージュ

――串田さんは、おっしゃるように物語の枠組みを借りて、新たな解釈や興味のあることを取り入れて、自由に料理されることが多いですよね。今回は可愛らしくて、絵本に似合いそうなタイトルですが、どんな作品になりそうですか?

串田 そんなに可愛いかな(苦笑)。「そよ風」と聞くとたしかに優しい感じがするけど、少し得体が知れないと思わない? 僕は風をずっとテーマにしていて、芝居のタイトルにつけたり、“風が吹くシリーズ”と銘打ってエッセイを書いたりしてきた。風というのはいろんな使われ方をされるじゃない。運動が起きる、うわさが広がる、革命の風みたいな言い方もある。吹いた風がやがて嵐に発展していくなんて場合もあるよね。

――ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスに嵐を起こす「バタフライ効果」という例えもありますね。

串田 そういうのもありますね。それからこの数年、夢や時空について考えたり、稽古場で話したりしていたこと。時間は人間が思っている認識で進んでいるのかとか、時間の不確かさについてずっと考えていたこと。人間の情、懐かしいとか、未来への希望とか、恐ろしさとかのようにふと思ってしまうこと、そして当たり前に持っている感情のこと。そういう要素を織り交ぜて作品をつくるんだけど、ある言い方をすれば『マクベス』という作品に対するオマージュであり、『マクベス』から発想した作品ということかな。

――『マクベス』は串田さんにとって刺激を与えてくれる作品ということですね。串田さんはここ数年、見えないものへの畏怖を意識して演出されているように感じます。

串田 風や魔女の気配、匂いなんかもそうだよね。そして今の時代だからどうしてもコロナの話につなげてしまいがちだけれど、世界中で赤い服が着たくなったり、ある曲調の音楽が聴きたくなったりというところから流行が生まれるでしょ。同じような雰囲気が世界に広がって時代が変わっていくということもあるじゃない。そういうことはいくらでも理屈で説明がつくんだけど、ネズミが集団自殺するように、イナゴが大量発生して緑を食い尽くして移動していくように、人間だって何かに動かされる、あるいは動いてしまうこともあって。コロナ禍で世界中であるムードが蔓延すると、今度はどこかで起きている戦争とか悲しい出来事に目がいかなくなってしまう。そういう流れが続くと大きな力に操作されているのかと勘ぐりたくもなるけれど、それは別の人たちに任せておいて。僕は何かわからないものに突き動かされる不思議に興味があるんだよね。じゃあマクベスはどうだったんだろうか。本当に王様になりたかったのか。だってコーダーなんてスコットランドの北の果てで、もらってもメリットが少ない地域。王になるという魔女のささやき、そよ風のささやきが人生を狂わせていったのかもしれない、そんなことを考えたわけです。

――たとえば“魔が差す”という言い方もありますね。
串田 そう、人間は誰でも魔が差す。そして集団で魔が差すこともある。第二次世界大戦なんか本当にそうで、誰も決断してないのに、「空気」は戦争に向かっていたなんて証言もあるように、特に日本人は「空気」によって不可思議な判断をしてしまう。忖度なんて言葉が使われるけど、誰も忖度しろなんて言わないのに起こる。コロナ禍の自粛も、ある意味では魔が差すための仕掛けじゃないかな。自粛というのは本来は「自分だったらどうするか」を考えた結果のはずなのに、そのプロセスを全部飛ばしている。自粛はある意味で強烈な命令になってしまっている。

昔の演劇の考え方は、役づくりをするのに、この人はこういう生い立ちで、こういう背景だから、こんな行動に出てしまったんだと考えさせた。でも本当はそうじゃない、生い立ちなんて関係なくいきなり予想もしない行動に出てしまうこともある。ふっと湧く感覚というのかな。マクベスも魔が差したのかもしれないね。

 

マクベス以外のすべての登場人物が魔女となって翻弄する

――マクベス以外はみんなが魔女を演じると聞きました。

串田 そうそう。みんな魔女。マクベスの奥さんも魔女。一人の役者がいくつもの役も演じたり、大道具小道具を動かしたりしながら芝居をつくっていくとするなら、役者だって魔女だと言うこともできるんじゃないか、そういう発想ですね。

――武将としては優れていても、愚直で気弱なところがあるマクベスが、魔女たちに翻弄されながら人生を歩むという図が描かれそうですね。

串田 マクベスには権力を手に入れた瞬間に不安になって魔女に助けを求めに行って「バーナムの森が進撃して来ないかぎり安泰」「女の腹から生まれたものには負けない」と予言をもらう。

バーナムの森の進撃は相手方の兵士たちが木の枝を掲げて近づいてマクベス軍を攻めるというふうにシェイクスピアは描いたけど、今回は、老臣下のシートンが「陛下、恐れながら森はいつも動いています」と言うことにしました。植物は大きな単位で見れば、芽を出し成長を繰り返しながら、もっといい土地へ何千年もかけて動いている。ただ人間の生きる時間の単位、視点で見ると、動いているものも止まっているように見えるだけなんだよね。それを感じるか、感じられないか。

最後にすべてを失ったマクベスと、マクベスに妻子を殺されたマクダフとが戦うシーンがあって、マクベスが「女の腹から生まれたものには負けない」と叫ぶと、マクダフが「俺は帝王切開で生まれたんだ」と言い返す。そんな屁理屈でいいのかよという展開があるでしょ。このシーンも「今の俺は家族を皆殺しにしたお前への怒りから生まれたんだ」と言い返すことにしたんです。怒りというはっきりとした目的を持った人間と欲望の燃えかすのようになった人間の行き場がなくなった戦いがクタクタになるまで延々と続くエンディングだけど、これこそ僕には現代の人類の構造なのではないかなと思うんですよ。

『マクベス』は言うまでもなく有名な作品で、『そよ風と魔女たちとマクベスと』の展開はほとんど原作通り。ずいぶんしゃべってしまったけれど、これまでの上演とはだいぶ違う解釈になっているので、新たな作品として楽しんでいただけると思います。